金春晃實師を偲んで

昨年(平成14年)4月3日に金春晃實師が逝去されました。享年70歳でした。金春晃實師の一周忌を迎え、「金春月報」の平成14年6月号に掲載されました、金春穂高師と春敲会の加藤正嗣さんの追悼文を転載し、在りし日の金春晃實師を偲びます。(文中、〔 〕は管理人の注です。)

「父の思い出」

                  金春穂高

 願わくは 花の下にて 我死なん その如月の 望月の夜に

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(平成13年の晃實師)

如月に桜とは時期がずれているようであるが、如月の望月とは、旧暦2月15日のことで今の暦と2ヶ月近くずれることもあるし、今年のように花が早く咲くこともあり、おかしいとはいえないのである。ちなみに今年〔平成14年〕の如月の望月は3月28日である。父が選んだのは如月二十一日であった。例年であれば、桜が満開の理想的な日だったのかもしれない。

 

先日の父金春晃實の葬儀の際には、多方面からの弔問をいただき、また、多くのお気遣い、御志を頂戴し厚く御礼申し上げます。

昨年〔平成13年〕の夏以降体調を崩し、年末には、腎不全のために入院し、透析となりました。しかし能に対する執着は強く、今年〔平成14年〕1月26日に退院し、金春会の「遊行柳」を勤めました。その後一時期は体調が悪化したものの持ち直し、3月後半は特に体調もすぐれ、一度はあきらめていた4月の奈良金春会での「鶴亀」を舞う気力も出てきだしておりました。4月3日の午前零時頃に、装束出しをした後に、「ここに出しておいておきます。」と言うと、「ありがとう」と言う返事が返ってきて、これが最後の会話となってしまいました。午前3時半頃、台所で倒れ、それっきりとなってしまいました。人間、驚きが強すぎるとかえって動じないものかもしれません。今から考えると、その時は実に冷静に対処していたように思います。ただ理解できないでいたからかもしれませんが、あれから1ヶ月が過ぎ、ある程度落ち着きましたが、ふっと先行きの不安が頭をよぎり、胸が痛くなります。この文章も、書くのに1週間かかりました。父のことを書こうにもうまくまとまらないのです。今清書しながら、これで意味が理解してもらえるのかなと心配しております。「晃實ばなし」〔晃實師が金春月報に連載されていた随筆の文書のように取留めもなく書いてみました。

父のことを知っていらっしゃる多くの方は、変わった能を好んで舞う人という印象があるようです。当人の好きな曲は何かと考えると、「一角仙人」「春日龍神」「項羽」「舎利」「東方朔」「野守」「初雪」「氷室」といった曲があげられます。その他、近年国立能楽堂の催しで「呉服」「放生川」「淡路」といった曲を勤めた印象も強い。嫌いな曲は「百万」「杜若」といったところがあげられるでしょう。「あれは舞いっぱなしで、あんなものは能とはいえない」と言っていたことがありました。しかし、だいたい三番目物があまり好きでなかったように思われます。3年ほど前に国立能楽堂の方がお見えになり、「誓願寺」を依頼してきました。その時父は、「私はもう三番目物はよう舞いません。どうしてもと言うのなら、初雪であれば舞います。」と返事をし、結局「初雪」になってしまったということがありました。父は体格を活かせる鬼畜物などの荒く力強いものを好んでいました。昔よく「三番目物なんかは型付けを読めば習わなくてもだいたいわかるが、動きの激しいものは直接習わないと分からないし、体の動くうちに舞わないかん。」と言っていました。その主義のせいか、私は今までに70曲程度の能を舞っているが三番目物の番数が少ないという事実もあります。「羽衣や半蔀などはいつでも舞える。」ともよく言っていました。両曲とも父の代役を考えて何度か覚えましたが、まだ舞台では舞ったことがありません。

父の能を見て、言葉では説明できないうまさを感じていました。体格を活かした型や、繊細な謡、舞台上での配置など、一番の能のためにいろいろな工夫、研究をしていました。なくしてみて初めて分かるそのありがたみを今強く感じています。親がしっかりし過ぎると、その子は頼りなく、ふぬけになるようです。

父は何でも自分で仕切って、その通りにしないと気がすまないという性格でした。私が舞う能の曲目でも、今まで一度も私の希望が通ったことはありませんでした。最近でこそ「お前今度は何を舞いたいか?」と聞いてくるようになりましたが、それは形式だけで、私が何かの曲を言うと「それは勉強にならないから、△△にしておけ」となってしまうのでありました。しかし思い起こせば今年1月の金春会の「鐘馗」については、「お前以前に鐘馗を舞ってみたいと言っていただろう。今回はそれにしておけ。」という感じで決まったので、一応私の希望が通ったことになるのでしょうか?いや、当日の番組が「室君」「遊行柳」とくると、あまり選択肢がなかったということも考えられます。

父のイメージとしては、とにかく《がんこ》という言葉がぴったり来る気がします。しかし対外的には社交的で、多方面の方々から大変慕われ人気があったようで、学生時代私は、この父の人気が世界七不思議の一つに思えたものでした。白いものを黒と言ってしまったら、それが黒くなるまで黒と言い続ける人でした。黒くなるまでとは、誰かがその白いものを黒く塗り潰して、その場をおさめないといけない状況になるということです。こんなことを言っていても、今の私があるのは間違いなく父のおかげであり大変感謝しております。稽古は極端に厳しかったものの、いつでも真剣勝負で手抜きをしない人でしたので、私の稽古のときはさぞかし忍耐強さが必要であったろうし、疲れたことと思います。結局父の目にかなう能楽師にはいまだなれずで、父もさぞがっかりしていたことでしょう。

 

父の趣味は登山とスキーでした。(これについては「晃實ばなし」を参照してください。)小学校までは毎年、北アルプスに連れていってもらいましたが、その後は、帝塚山大学能楽部の合宿の時に白馬に数回登ったぐらいで、私の登山人生は終了しました。これでは、名前が泣いていると言われても仕方がないのですが。また、私のゲレンデデビューは小学校低学年の時です。子供用スキー板(当時はまだ紐で縛っていた。)をもらったのがきっかけでしたが、長靴でテクテク歩き、リフトに乗せられ、リフトを降りたらスキーをつけられ、いきなり「ここから滑り降りろ」と言われたのでした。いきなり滑れるはずがなく、結局そのスキー板を履いたのは、それが最初で最後でした。その後は父におぶってもらい、父の背中の上でのゲレンデデビューとなった次第です。その時に私が言った言葉が「お父ちゃんスキー上手やね。」だったそうです。ちなみにその時のスキー板の運命はというと、数年後父が登山に持って行き、雪渓で滑っていたら折れてしまい。帰らぬ板となってしまいました。ただし、私が30歳の時にひょんな事からスキーを始め、今シーズン一級を取ったときにとても喜んでくれました。(父が死ぬ調度1ヶ月前の3月3日のことです。)どうも父は、私がスキーを始めてから、私と一緒に滑りたいと思っていたようで、「韓国のスキー場はすばらしいから一緒に行こう」と言っていました。しかし、外国嫌い、かつ飛行機嫌いの私は、首を縦に振ることはありませんでした。今から考えると親不孝でした。実は、昨年の夏に父の長年の夢であったアフリカ旅行へは妹の咲良が同行し、年末の韓国スキー旅行へは私が付いて行くことになっていたのでした。(スキー旅行といっても、父は膝を痛めており、2年前からスキーはせずに、喘息の転地療法をかねてのんびりと自然の中で過ごすというものでありました。)しかし年末に腎不全のために緊急入院、人工透析となり、かなわぬ夢となってしまいました。さぞかしがっかりしたことと思います。

今年〔平成14年〕3月24日の西御門金春会例会で、私の長男飛翔が初舞台として「羽衣キリ」を舞いました。父は飛翔のことをとても気に入っており、「飛翔は、何もかも自分の子供時代にそっくりである。」と言いながら、飛翔の姿に昔の自分をあてはめていたようです。相当の思い入れがあったので、その初舞台を大変喜んでいました。これが父の最期の喜びだったであろうと思います。驚いたことに飛翔と二人で近鉄百貨店へ買い物に行き、7千円以上する電車のおもちゃのセットを買ってきました。はっきりいって私は、飛翔のことをうらやましく思ったという記憶があります。ただ父の最大の心残りは、飛翔の子方姿(今年〔平成14年〕10月の「花筐」の子方を予定)を見ることができなかったことと思います。もしかすると頑固な父のこと、10月までは成仏できないと言ってわが家に漂って、いきなり公会堂の舞台に、あるいは見所に現れるかもしれません。皆さんも気をつけてください。

長年のご指導ありがとうございました。これからは、わが家の行く末を見守り、良き方向へお導きくださることをお願いいたします。

合掌

◎父の言葉(晃實語録)

● お前それのどこを工夫したというんや。

● そんなこと誰が教えた。

● それやったら謡本を覚えたというだけや。謡本は教科書とは違う、あくまで参考書や。謡本の通りそのまま謡ってどうするんや、もっと稽古しろ。

● 型付け通りに舞っているだけで何も面白くない。お前それでも玄人と言えるのか、まだ素人でも上手なのがいる。そんなんやったら素人以下や。

● 下手くそ、眠りながらやってんのか。

● ちがう、ここはこうして、こうして、こうすればいいんや。そうちがう。

● それはドブさらいでもしてるのか。

● 馬鹿野郎。

● あかん、もう1回。

● 何度ゆうたらわかんねん。

● お前それ何をやりたいの。

● もっと謡の稽古をせんか。

● じっとしろ、膝、腕、手首を引っ込めて、肘張って、腰を落とす。

● もっと力を入れんか。

● 力の入りすぎ。きばりすぎや。

● 能というのは、1曲の中に一つか二つ客にはっとさせる何かキラリと光る所があれば成功や。

● お前はいつものんびりしているな、何でそんなことする時間があるんや。不思議な奴や。

● 何か成就するためには、何かを捨てなあかん。お前は趣味が多すぎる。

● いつでも僕の代役ができるようにしとけよ。僕みたいな者はいつ死ぬか分からへんから。

● 大小前は、大小前とちがう。

● 今度は何の能を舞いたい?

● そんなん勉強にならへんから△△にしとけ。

● (立方の稽古は)テープに吹き込んで稽古しろ。自分で謡って稽古しても、自分の舞いやすいように謡ってしまうから稽古にならん。

● 金春ピッカリ君。

● 飛翔君、戸を開けたらきちんとピッチャンしとかなあかん。

◎今年〔平成14年〕に入ってからの言葉

● ああ、遊行で舞い納めかな、能評で引導も渡されたし、これからは謡屋専門で行くか。

● ◇◇と△△と★★の薬を持ってきてくれ。(入院先の病院から電話で)

● 時間が足らん、時間がない。

● 心配せんとき、あっさり死んだるから。

● 飛翔舞うんか? 舞えんのか?

● 飛翔はどうや。

 

 

 

金春晃實師の思い出」

               春敲会 加藤正嗣

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(平成元年の晃實師)

10年ほど前のことでしょうか。仕舞の途中の「下ニ居ル」型の稽古のところでした。その時の先生の言葉が、今も耳から離れません。

「そんな所で休憩していてはいけません。シテが楽をしていて、観客が感動するはずがないでしょう。じっとしていても存在感がある、それを力量というのです。」

我々ごときが観客の感動を意識するのはおこがましいとは思うのですが、そうした甘えや妥協を許さない厳しさが、先生でした。

またここ数年は、手数を減らすように指摘されることが多くなりました。

「そんな気ぜわしいことをやってはいけません。」

我々は以前に習ったとおりの型をしているつもりなのですが、先生は煩雑だから省けとおっしゃるのです。型を省けば時間を持て余します。しかしその時間を、ジワッとした動きと存在感で満たせとおっしゃるのです。

さらに言えば、先月と今月で指摘が違っていたり、妻の稽古のときと私のときとでも微妙に違うことがありました。シテの動きを見て、全体のバランス中で絶えず考案しておられたのだと思います。

後悔先に立たず。新しい気持ちで稽古に励まなくてはと感じつつあった矢先に、先生は急逝されました。先生のご冥福をお祈りしつつ、耳に残る言葉を噛みしめている毎日です。

 

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