地謡座から−001

『景清』金春穂高:名古屋能楽堂(2002.11.2)

 「景清」は位の高い能と聞き及んでいましたので、地謡を習ったときから「これは今までのものとはちょっと違う」という思いが私の心の中に持続していました。微妙なところが頻出し、とても難しいんです、全く。果たして、申し合わせに参加した時もいつもとは違う張りつめた空気を感じました。皆ピリピリの状態だったのです。

 穂高先生が役になりきっておられる姿勢は、地謡座にもひしひしと伝わってきました。藁屋の中でただ座っているだけの時も、小刻みにお顔が上下しているのです。老人特有の所作を表現しておられるのか、ご自身の緊張からなのかは判りませんでしたが、意気込みの凄さを感じるには十分でした。

 当日は先ず有名な「松門の出」に耳をこらしました。景清の面をつけての謡だからでしょうか、私が教えていただいたときよりも幾分柔らかな印象を受けました。引廻しがとられて現れたシテの出立は、大変調和のとれた美しい姿でありました。座っているだけで気品があるのです。なかなかまねの出来ないことと思いました。そのあとは、与えられた地謡としての役を果たすため、心の余裕がなくなってしまいましたので、細かい点は見ることが出来ませんでした。当たり前ですね。

 はっとする動きが何度かありましたので、見所で見ておられる方々には見どころの多い能であろう、自分も今度はゆっくり鑑賞の側におりたいものだと、これは終わってから感じました。何度も稽古をした地謡でした。今度は大丈夫と確信して座りましたが、持ちのところと特に引きの部分は難しいものです。同じヤヲでも長さが違いますし、どこで持つのかがなかなか判りません。これも時間をかけて学ばせてもらうつもりです。地謡には何度か座らせていただきましたが、今回はかなり緊張しまして、秘密兵器もあまり役に立たず、退出時に少し困りました。実は、小池さんにビデオ撮影をお願いしたのですが、うっかりバッテリーを換えておくことを忘れ、本番中に気がつき、頭の中がカッカッとして大変な状態でした。こういうことが足先に伝わって痺れることになるとは、お釈迦さまでもご存じあるめいであります。

 今回は、始めて能を見る方を見所にお招きしました。大変な人格者であり優れた教育者のお方です。人間観察にも秀でたお方なのですが、演能の後でご感想を聞いてみました。地謡のハーモニーをほめて下され、囃子方のかけ声に興味を持たれたようです。シテ方の穂高先生の本当のご年令を申し上げたら、驚かれました。大鼓の筧さん位の年の人と思いこんでおられました。確かに、演能中の所作は老残の姿でしたし、終わって橋掛を退出される姿は、私も感じましたが老人そのものでした。文字通りシテやったりでありましょう。まだまだ申し上げたいことありますが、この辺にしておきます。素晴らしい「景清」でした。

(箕浦遵)

 

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