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船弁慶ふなべんけい

【分類】五番目物(切能)

【作者】観世小次郎信光

【登場人物】 

登 場 人 物 装  束

前シテ

静御前 小面

鬘、箔、唐織、[物着にて]静烏帽子

後シテ 平知盛の怨霊 怪士 黒頭(鍬形、白鉢巻)、法被、半切、腰帯
子方 源判官義経 金風折、唐織、長絹、大口、腰帯
ワキ 武蔵坊弁慶 頭兜、水衣、大口、腰帯
ワキツレ 従者三人 梨打烏帽子、側次、大口、腰帯

 

【あらすじ】(舞囃子の部分[前シテと後シテとがあります]は下線部です。仕舞〔キリ〕の部分は上線部、仕舞〔クセ〕の部分は斜体です。)

源義経は、平家追討に武功を立てますが、戦が終わると、かえって兄頼朝から疑いをかけられ、追われる身となります。義経は、弁慶や従者と共に都を出、攝津国(兵庫県)大物浦から西国へ落ちようとします。静御前も、義経を慕ってついて来ますが、弁慶は時節柄同行は似合わしくないから、都へ戻すように義経に進言し、了承を得ます。弁慶は静を訪ね、義経の意向を伝言しますが、静は弁慶の計らいであろうと思い、義経に逢って直接返事をするといいます。義経の宿に来た静は、直接帰京をいいわたされ、従わざるを得ず、泣き伏します。名残りの宴が開かれ、静は、義経の不運を嘆きつつ、別れの舞を舞います。やがて出発の時となり、涙ながらに一行を見送ります。

<中入>

弁慶は、出発をためらう義経を励まして、船頭に出発を命じます。船が海上に出ると、にわかに風が変わり、激しい波が押し寄せて来ます。船頭は必死に船をあやつりますが、吹き荒れた海上に、西国で滅亡した平家一門の亡霊が現れます。中でも平知盛の怨霊は、自分が沈んだように、義経を海に沈めようと長刀を持って襲いかかって来ます。義経は少しも動ぜず戦いますが、弁慶は押し隔てて、数珠を揉んで祈祷します。祈られた亡霊は、しだいに遠ざかり、ついに見えなくなります。

 

【詞章】(舞囃子の部分[前シテと後シテとがあります]は下線部です。仕舞〔キリ〕の部分は上線部、仕舞〔クセ〕の部分は斜体です。) 

子方、ワキ、ワキツレ(次第)「今日思い立つ旅衣。今日思い立つ.旅衣.帰洛をいつと.定めん。

ワキ「これは西塔の武蔵坊弁慶にて候。さても我が君判官殿は。鎌倉殿の御代官として。驕る平家を亡ぼし給い。今は御兄弟の御中日月の如くござあるべきを。言いかいなき者の讒言により。御中たがわせ給いて候。然れども我が君は。親兄の禮を重んじ給い。ひとまず都を御開きあって。御身にあやまりなき由を仰せひらかれん為。今日夜をこめ。津の國尼が崎大物の浦へと急ぎ候。

ワキ、ワキツレ「頃は文治の初めつかた。頼朝義経不快の由。すでに落居し力なく。

子方「判官都をおちこちの。道狭くならぬその先に。西國の方へと.心ざし。

ワキ、ワキツレ「まだ夜深くも雲井の月。いずるも惜しき都の名残。ひととせ平家追討の。都出には引きかえて。唯十余人すごすごと。さも疎からぬ.友舟の。上りくだるや雲水の.身は定めなき.習いかな。世の中の人は何とも.石清水。

ワキツレ「人は何とも.石清水。

ワキ、ワキツレ「すみ濁るをば。神ぞ知るらんと。高き御影を.伏し拝み。行けば程なく旅衣。潮も波も共に引く.大物の浦に着きにけり.大物の浦に着きにけり。

ワキ「御急ぎ候ふ程に大物の浦に御着きにて候。この所に某存じの者の候間。御宿を申しつきょうずるにて候。まずこうござ候え。まさしく静は御供と見えさせ給いて候。波濤をしのぎ伴われん事。人口しかるべからず候ほどに。申しとめばやと存じ候。いかに申し上げ候。まさしく静は御供と見えさせ給いて候。波濤をしのぎ伴われん事。人口しかるべからず候間。まずまず静は都へ御返しあれかしと存じ候。

子方「ともかくも弁慶計らい候え。

ワキ「畏って候。さらば御使いとして静の私宅に参ろうずるにて候。いかにこの屋の内に静の渡り候か。君よりの御使いに武蔵が参りて候。

シテ「なに武蔵殿と候や。さて只今は何の為の御出で候ぞ。

ワキ「さん候我が君の御諚には。波濤をしのぎ伴われん事。人口しかるべからず候あいだ。まずまず静は都へ御帰りあれとの御事にて候。

シテ「これは思いの外なる仰せかな。いずくまでも御供とこそ思いしに。頼みても頼み少なきは.人の心なり。あら何ともなや候。

ワキ「さて御返事をば何と申し候べき。

シテ「わらわ御供申し。君の御大事になり候わば留まり候べし。

ワキ「あら事事しや。御身一人御供あればとて御大事までの候べきか。ただ御とまりあるが肝要にて候。

シテ「よくよく物を案ずるに。これは武蔵殿の御ぱからいと思い候程に。自ら参り。直に御返事を申そうずるにて候。

ワキ「それはともかくもにて候。さらばこう御参り候え。いかに申し上げ候。静の御参りにて候。

子方「いかに静。われ思わずも落人となりゆく所に。波濤をしのぎ伴わん事。人口然るべからず。まずまず静は都に上り。自然時節を待ち候え。

シテ「さては我が君の御諚にて候ものを。よしなき武蔵殿を恨み参らせし事の面目なきは候。返すがえす.面目のうこそ候え。

ワキ「いやいやこれは苦しからず。只今君の御諚の如く。ただ人口をおぼしめすなり。御心変るとなおぼししめしそと。涙を流し申しけり。

シテ「いやとにかくに数ならぬ。身には恨みのなけれども。これは舟路の.門出なるに。

地謡「浪風も静を留め.給うかと。静を留め.給うかと。涙を流しいうしでの。神かけて変らじと。契りしことも定めなや。げにや別れより。まさりて惜しき命かな。君にふたたび.あわんとぞ思う.行末。

子方「いかに弁慶。

ワキ「御前に候。

子方「静に酒を勧め候え。

ワキ「畏って候。げにげにこれは御門出の。行末千代ぞと菊の酒。静にこそ勧めけれ。

シテ「わらわは君の御別れ。やる方なさにかきくれて。涙にむせぶばかりなり。

ワキ「げに御歎きはさる事なれども。旅の船路の門出の和歌。ただひとさしと勧むれば。折節これに烏帽子の候。これをめしひとさし御舞い候え。

<物着>

シテ「その時静は立ち上り。時の調子を.取りあえず。渡口の郵船は.風静まって出で。

地謡「波頭の謫所は。日晴れて見ゆ。

シテ「立ち舞うべくもあらぬ身に。

地謡「袖打ち振るも。恥かしや。

<イロエ>

シテ「伝えきく陶朱公は勾践を伴い。

地謡「会稽山にこもり居て。種々の智略をめぐらし。ついに呉王を亡ぼして。勾践の本意を達すとかや。然るに勾践は。ふたたび世をとり、会稽の恥をすすぎしも陶朱功をなすとかや。されば越の臣下にて。政をみにまかせ。功名富たっとく。心の如くなるべきを。功なり名をとげて身しりぞくは。天の道と心得て。小船に掉さして五湖の遠島をたのしむ。

シテ「かかる例しも有明の。

地謡「月の都をふりすてゝ。西海の波涛におもむき御身の科のなきよしを。なげき給わば頼朝も。ついにはなびく青柳の。枝をつらぬる御契り。などかはくちし、はつべき。ただたのめ。

<中の舞>

シテ「ただたのめ。しめじが原のさしもぐさ。

地謡「われ世のなかに。あらん限りは。

シテ「かく尊詠のいつわりなくは。

地謡「かく尊詠のいつわりなくはやがて御代にいでぶねの。ふな子ども早やともづなを、とくとくと。早やともづなをとくとくと。すすめ申さば判官も旅のやどりをいで給えば。

シテ「しずかはなくなく.

地謡「えぼしひたたれぬぎすてて。涙にむせぶ御別れ.見る目もあわれなりけり.見る目もあわれなりけり。

<中入>

ワキ「静の御有様を見涙を流して候。今日は日本一の追風にて候ほどに。おん船をいださばやと存じ候。

ワキツレ「いかに武蔵殿に申し候。

ワキ「何事にて候ぞ。

ワキツレ「君よりの御諚には。今日は波風荒く候ふ程に。御逗留と仰せ出だされて候。

ワキ「何と御逗留と仰せいだされたると候や。

ワキツレ「なかなかのこと。

ワキ「なおも静に御名残を惜しみたまい。御逗留と仰せ出だされたると存じ候。ひととせ渡辺福島を御出での時。もっての外の大風なりしに。君おん船をいだしたまい。ご運のひらかれしも今もって同じ事。急ぎ御舟を出だすべし。

ワキツレ「げにげにこれは理なり。いずくも敵という浪の。

ワキ「立ち騒ぎつつ.舟子ども。

地謡「えいやえいやとひく汐に。つれてお舟を。出だしけり。

ワキ「あら笑止や俄に風が変って候。あの武庫山おろし譲葉が嶽よりも吹きおろす嵐に。このおんぷねの陸地に着くべきようぞなき。皆皆心中に御祈念候え。

ワキツレ「いかに武蔵殿へ申し候。

ワキ「何事にて候ぞ。

ワキツレ「この御舟にはあやかしがつきて候。

ワキ「ああ暫く。船中にては左様の事を申さぬ事にて候。何事も武蔵と船頭に御任せ候え。あら不思議や海上を見れば。西國にて亡びし平家の公達。各各浮み出でたるぞや。かかる時節を伺いて。恨をなすも理なり。

判官「いかに弁慶。

ワキ「御前に候。

子方「たとい悪霊恨みをなすとも。なにほどのことのあるべきぞ。悪逆無道のそのつもり。神明仏陀の冥感にそむき。天命に沈みし平家の一類。

地謡「[主上をはじめたてまつり.]一門の月卿雲霞の如く。浪に浮かみて。見えたるぞや。

シテ「そもそもこれは。桓武天皇九代の後胤。たいらの知盛幽霊なり。あら珍らしやいかに義経。思いもよらぬ浦浪の。声をしるべにいで舟の。

地謡「声をしるべにいでぶねの。

シテ「知盛がしずみしその有様に。

地謡「又義経をも海に沈めんと。いう浪に浮かめる長刀取直し。巴浪の紋あたりを拂い。うしおをけたて悪風を吹きかけ.まなこもくらみ.心もみだれて。前後を亡ずるばかりなり。

<働二段>

子方「そのとき義経すこしもさわがず。

地謡「そのとき義経すこしもさわがず.うちものぬき持ちうつつの人に。向うが如く。ことばをかわし戦い給えば。弁慶おしへだて.うち物わざに叶うまじと。数珠さらさらとおしもんで。東方降三世南方軍陀利夜叉西方大威徳北方金剛夜叉明王中央大聖不動明王のさっくにかけて。祈りいのられ悪霊次第に遠ざかれば。弁慶舟子に力をあわせ。お舟を漕ぎのけみぎわによすれば.なお怨霊は。したい来たるを。追っぱらい祈りのけ.また引く汐にゆられ流れ。またひく汐にゆられ流れて。あと白波とぞなりにける。

 

 

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