02-02 能好き    夢野久作  

    原題:「能とは何か」から

 ところがそんな能ぎらいの人々の中の百人に一人か、千人に一人かが、どうかした因縁で、少しばかりの舞か、謡か、囃子かを習ったとする。そうすると不思議な現象が起る。

 その人は今まで攻撃していた「能楽」の面白くないところが何ともいえず面白くなる。よくてたまらず、有り難くてたまらないようになる。あの単調な謡の節の一つ一つに云い知れぬ芸術的の魅力を含んでいる事がわかる。あのノロノロした張り合いのないように見えた舞の手ぶりが、非常な変化のスピードを持ち、深長な表現作用をあらわすものであると同時に、心の奥底にある表現慾をたまらなくそそる作用を持っている事が理解されて来る。どうしてこのよさが解らないだろうと思いながら誰にでも謡って聞かせたくなる。処構わず舞って見せたくなる。万障繰り合わせて能を見に行きたくなる。

 今まで見た実例によると、能ぎらいの度が強ければ強いほど、能好きになってからの熱度も高いようで、その変化の烈しさは実例を見なければトテモ信ぜられない。実に澄ましたものである。

 しかし、そんな能好きの人々に何故そんなに「能」が有難いのか、「謡曲」が愉快なのかと訊いてみても満足な返事の出来る人はあまりないようである。

「上品だからいい」「稽古に費用がかからないからいい」「不器用な者でも不器用なままやれるからいい」なぞと色々な理屈がつけられている。又、実際、そうには相違ないのであるが、しかし、それはホンの外面的の理由で、「能のどこがいい」とか「謡の芸術的生命と、自分の表現慾との間にコンナ霊的の共鳴がある」とかいうような根本的の説明には触れていない。要するに、

「能というものは、何だか解からないが幻妙不可思議な芸術である。そのヨサを沁みじみ感じながら、そのヨサの正体がわからない。襟を正して、夢中になって、涙ぐましい程ゾクゾクと共鳴して観ておりながら、何故そんな気持ちになるのか説明出来ない芸術である」

 というのが衆口の一致するところらしい。

 正直のところ、筆者もこの衆口に一致してしまいたいので、この以上に能のヨサの説明は出来ない事を自身にハッキリと自覚している。又、真実のところ、能のヨサの正体をこれ以上に説明すると、第二義、第三義以下のブチコワシ的説明に堕するので、能のヨサを第一義的に自覚するには、「日本人が、自分自身で、舞か、囃子をやって見るのが一番捷径」と固く信じている者である。

 これは、この記事の読者を侮辱する意味に取られると困るが決してそうでない。以下陳ぶるところの第二義以下の説明を読み終られたならば、筆者の真意の存するところを諒とせらるるであろう。

※「能とは何か」(夢野久作)は、分載中です。

  1 『能ぎらい

  2 『能好き』

  3 『能という名前』 

[ ホーム ] [ 能の随想 ] [ 能の随筆から ]